【代表弁護士から】「弁護士経済危機」(?)
2016年05月20日(金曜日)
弁護士というと、儲かる商売の典型のようにいわれておりましたが、最近では弁護士数が増えてきたこともあり、収入が減少している弁護士も増えてきております。
千葉県弁護士会では、これを「弁護士の経済危機」としており、平成27年度の会務方針として、弁護士の収入の激減に対処するための対応というものを行いました。
とこう書きますと、収入が減少している弁護士のために、弁護士会が仕事を取ってくるようなことをするのかと思われますが、そのようなものではく、
1 組織が縦割りになっているから、横断的な組織(「弁護士業務整備・拡充対策本部」)を立ち上げる
2 収入源の根本原因となっているのは、司法試験の合格者の数だから、これを制限するように求める
というものでした。
目標は弁護士の収入増という、収入が減っている弁護士は大喜びしそうなものなのですが、実際の政策は、組織を新たに作ることだったり、司法試験の合格者数という国の政策で決められるものに対して要請するというもんだったりして、竜頭蛇尾という感が拭えません。
弁護士の収入が減少しているというのであれば、高い会費(千葉県弁護士会の会費は月額で3万円)を引き下げれば良さそうなものですが、そのようなことには一切触れられていません。
弁護士というと、唯我独尊タイプ、自由な発想をするタイプのように思われるかもしれませんが、弁護士会という全会員が加入しなければならないような組織ともなると、硬直的な、かつ組織の論理を優先したものになりがちであることは、他のどこかの組織とも変わることがないようです。
【スタッフ雑談】新緑が美しい香取神宮にて
2016年05月16日(月曜日)
先日、香取神宮(千葉県香取市)で春季弓道大会が行われました。
今回は大会運営のお手伝いをするために、友人と参加してきました。実に22年ぶりに弓道大会を見たのですが、私が当時現役で弓を引いていた時とはだいぶ雰囲気が変わり、とても新鮮でした。
弓道は、的に当たった矢の本数で勝敗を競うのですが、今回の大会では、最初に2本、その後、4本放ち、計6本中何本的に当たったかで勝敗を決めるルールでした。同率本数の場合、順位決めは競射(1つの的に同率順位者が1本ずつ矢を放ち、的の中心により近い矢から順位が決まるもの)で行われました。競射はとてもスリリングです。的の中心を狙って矢が次々に放たれ、的に突き刺さる様は圧巻で芸術的でした。
一般の部の優勝者と学生の部の優勝者の2名で、最後は総合優勝を決めるための決勝戦を行ったのですが、この決勝戦は射詰(いづめと読み、それぞれの的に向かって1本ずつ矢を放ち、どちらかが的を外すまで行い、的を先に外した方が負け)で行われました。そして、学生の部の優勝者である地元高校生が見事優勝を飾りました(残念ながら私の母校ではありませんでしたが)。
見ていると弓を引きたくなりました。今年の秋の大会にはエントリーできるよう精進したいと思っています。(S)
【代表弁護士から】千葉氏と佐倉
2016年05月06日(金曜日)
千葉市は今年「開府890年」ということで、千葉氏をアピールする戦略です。
ただ、千葉氏が千葉市中心部を拠点にしていたのは、それほど長い期間ではありません。
350年くらいではないでしょうか。
千葉市中心部が拠点だったのは1126年~文明年間(1469~1486年)くらいです。
文明年間以降は、本佐倉城に拠点を移しています。
本佐倉城は、佐倉市・酒々井町にまたがっている中世の城で、現在は城跡しか残っていません。
国の史跡で、学術的な価値は高く、酒々井町では地元の方によるボランティアガイドに力をいれています。
戦国時代に千葉氏は後北条氏の傘下となりますが、豊富秀吉によって後北条氏が滅ぼされると同時に滅亡。
江戸時代は、佐倉市中心部に城が築かれ、佐倉藩の支配下となりますので、千葉氏は江戸時代には歴史的な存在となってしまいました。
千葉市では、「千葉氏サミット」を8月21日(日)に開催するそうです。
千葉氏にゆかりのある自治体の方を招いて、シンポジウムや、各自治体の物産品の展示・販売などを行うとのことなのですが、詳細はまだ明らかになっていません。
ところで、明治時代になって、千葉市が県庁所在地となり、裁判所の本庁は千葉市に置かれるようになりました。
佐倉市までは千葉市から20キロ程度とそれほど離れてはいないのですが、佐倉市に裁判所の支部があるのは、佐倉藩が存在していたことと関係があるのでしょう。
佐倉支部の管轄は、四街道市や成田市に及びかなり広い範囲です(そのほかには八街市、印旛郡、印西市、白井市、富里市)。
【スタッフ雑談】石材が語る火山がつくった日本列島
2016年04月27日(水曜日)
稜線が鋸の歯のようにギザギザしている鋸山は、千葉県の富津市と鋸南町の境に位置し、「地獄のぞき」と呼ばれる垂直に切り立った絶壁は観光スポットにもなっています。
この絶壁は「房州石」と呼ばれる石材を切り出した石切場の跡。
房州石は江戸時代から昭和60年頃まで盛んに採石され、軟石なのでツルハシ等の道具を使って手掘りで切り出されていたとか。
横浜港や東京湾要塞などの建築資材に、また耐火性があるので民家の塀やカマド、石垣などにも利用されていたそうです。
現在、千葉県立中央博物館で房州石などの石材を題材に、日本列島の大地を形作った火山の歴史を紹介する展示が行われているとのことで、見に行ってきました。
石材を切り出すための岩石はその成因や作られた時代が様々。その多くが火山に関係し、房州石、小松石、大谷石、白河石など各地の石材について、いつの時代の火山によるものなのか、岩石はどのようにしてできたのかなどが紹介されています。
ちなみに、房州石は伊豆・小笠原島弧の火山の軽石や火山灰が水流によって運ばれ海底に堆積した岩石。小松石は箱根火山が噴出した時の溶岩。大谷石は1500万年前の海底火山の噴火により火山灰や軽石が海底に堆積した岩石とのこと。
石材に興味をもったことはありませんでしたが、身近な場所で利用されている石材をとおして、火山や大地の歴史に思いを馳せることができることを教えてくれる展示でした。この展示を見た後、家屋の塀や石垣が気になってしょうがありません。
「石材が語る火山がつくった日本列島」は、千葉県立中央博物館にて6月5日迄開催。
5月には鋸山の石切場の観察会や、「火山と石材」と題するシンポジウムも行われるようです。
(R)
【代表弁護士から】藻原寺と日蓮
2016年04月19日(火曜日)
茂原市に藻原寺(そうげんじ)という日蓮宗の寺があります。
この寺、日蓮とは大いに関係のあるところです。
藻原寺のホームページによれば、同寺の縁起が次のように書かれています。
1253(建長5)年春、旭ヶ森で立教開宗された日蓮大聖人は、法難の為に清澄山を追われて藻原近くの「笠森」の観音堂で難を逃れた。
その時、藻原の豪族として威勢を誇っていた齋藤氏と、その一族の須田次郎時忠が同時に夢の中で、日蓮を迎えよとの観世音菩薩のお告げを受けたので、日蓮大聖人を自邸に招き、教えを乞い最初の帰依者となり、1276(建治2)年7月、ついに邸内に一小堂を建立しました。これが藻原寺の起こりです。
この縁起では、日蓮が清澄山から笠森観音(これは現在でも長南町にあります)に逃れていたということが前提となっていますが、日蓮の伝記を紐解くと、日蓮は清澄山から鎌倉に向かったことになっています。例えば、大野達之助著「日蓮」(吉川弘文館)によると、
”故郷の小湊から安房の西海岸に出、泉谷(今の南無谷)から船に乗って三浦半島の米ケ浜(今の横須賀)に渡り、三浦街道を経て鎌倉の東南名越に着いた。時に建長5年5月であった”
とされているからです。
清澄山から逃れた日蓮を茂原に迎えたというのは史実ではないようですが、日蓮が茂原の齋藤氏を信頼していたことは事実です。
日蓮が死の直前に書いた手紙にそのことが表れています。
日蓮が波木井実長から贈られた馬について、「あまりにも可愛いく思われるので、いつまでも離したくないと思います。常陸の湯へも引き連れてまいりたいとおもっていますが、もし人に盗まれでもしたら困ると思っています。またその外にも、かわいそうに思うので、湯から帰ってくるまでの間は、上総の藻原殿の許におこうかと思っております。」と書いているからです。
この上総の藻原殿というのが齋藤氏のことです。
ただ、その接点がいつどこであったのかについては未だよくわからないようです。
そのようなことが日蓮を笠森観音に迎えに行くという伝説を生んだのかもしれません。