【スタッフ雑談】石材が語る火山がつくった日本列島
2016年04月27日(水曜日)
稜線が鋸の歯のようにギザギザしている鋸山は、千葉県の富津市と鋸南町の境に位置し、「地獄のぞき」と呼ばれる垂直に切り立った絶壁は観光スポットにもなっています。
この絶壁は「房州石」と呼ばれる石材を切り出した石切場の跡。
房州石は江戸時代から昭和60年頃まで盛んに採石され、軟石なのでツルハシ等の道具を使って手掘りで切り出されていたとか。
横浜港や東京湾要塞などの建築資材に、また耐火性があるので民家の塀やカマド、石垣などにも利用されていたそうです。
現在、千葉県立中央博物館で房州石などの石材を題材に、日本列島の大地を形作った火山の歴史を紹介する展示が行われているとのことで、見に行ってきました。
石材を切り出すための岩石はその成因や作られた時代が様々。その多くが火山に関係し、房州石、小松石、大谷石、白河石など各地の石材について、いつの時代の火山によるものなのか、岩石はどのようにしてできたのかなどが紹介されています。
ちなみに、房州石は伊豆・小笠原島弧の火山の軽石や火山灰が水流によって運ばれ海底に堆積した岩石。小松石は箱根火山が噴出した時の溶岩。大谷石は1500万年前の海底火山の噴火により火山灰や軽石が海底に堆積した岩石とのこと。
石材に興味をもったことはありませんでしたが、身近な場所で利用されている石材をとおして、火山や大地の歴史に思いを馳せることができることを教えてくれる展示でした。この展示を見た後、家屋の塀や石垣が気になってしょうがありません。
「石材が語る火山がつくった日本列島」は、千葉県立中央博物館にて6月5日迄開催。
5月には鋸山の石切場の観察会や、「火山と石材」と題するシンポジウムも行われるようです。
(R)
【代表弁護士から】藻原寺と日蓮
2016年04月19日(火曜日)
茂原市に藻原寺(そうげんじ)という日蓮宗の寺があります。
この寺、日蓮とは大いに関係のあるところです。
藻原寺のホームページによれば、同寺の縁起が次のように書かれています。
1253(建長5)年春、旭ヶ森で立教開宗された日蓮大聖人は、法難の為に清澄山を追われて藻原近くの「笠森」の観音堂で難を逃れた。
その時、藻原の豪族として威勢を誇っていた齋藤氏と、その一族の須田次郎時忠が同時に夢の中で、日蓮を迎えよとの観世音菩薩のお告げを受けたので、日蓮大聖人を自邸に招き、教えを乞い最初の帰依者となり、1276(建治2)年7月、ついに邸内に一小堂を建立しました。これが藻原寺の起こりです。
この縁起では、日蓮が清澄山から笠森観音(これは現在でも長南町にあります)に逃れていたということが前提となっていますが、日蓮の伝記を紐解くと、日蓮は清澄山から鎌倉に向かったことになっています。例えば、大野達之助著「日蓮」(吉川弘文館)によると、
”故郷の小湊から安房の西海岸に出、泉谷(今の南無谷)から船に乗って三浦半島の米ケ浜(今の横須賀)に渡り、三浦街道を経て鎌倉の東南名越に着いた。時に建長5年5月であった”
とされているからです。
清澄山から逃れた日蓮を茂原に迎えたというのは史実ではないようですが、日蓮が茂原の齋藤氏を信頼していたことは事実です。
日蓮が死の直前に書いた手紙にそのことが表れています。
日蓮が波木井実長から贈られた馬について、「あまりにも可愛いく思われるので、いつまでも離したくないと思います。常陸の湯へも引き連れてまいりたいとおもっていますが、もし人に盗まれでもしたら困ると思っています。またその外にも、かわいそうに思うので、湯から帰ってくるまでの間は、上総の藻原殿の許におこうかと思っております。」と書いているからです。
この上総の藻原殿というのが齋藤氏のことです。
ただ、その接点がいつどこであったのかについては未だよくわからないようです。
そのようなことが日蓮を笠森観音に迎えに行くという伝説を生んだのかもしれません。
【スタッフ雑談】香取市誕生10周年です
2016年04月18日(月曜日)
千葉県北東部に位置する香取市は、2006年3月27日、1市3町(佐原市、香取郡小見川町(おみがわまち)、栗源町(くりもとまち)、山田町(やまだまち))の合併により誕生し、今年で合併10周年を迎えました。
香取市出身者としては、もう発足から10年経つのだなぁと月日が経つ早さに驚きます。
ところで、合併前の佐原市は「小江戸さわら」の名で全国的にもある程度の知名度があるように思いますが、小見川町、栗源町、山田町はどうでしょうか。
ぱっと名所や特産物が浮かばないかもしれません。そこで出身者として少しだけご紹介したいと思います。
小見川町は、利根川下流域に位置した水辺のまちです。水田が広がり、利根川の支流である黒部川ではレガッタや水上スキー大会なども盛んにおこなわれる地域です。毎年8月1日に花火大会が開催されるのですが、打ち上げ数は約8000発で、坂東太郎の水面に広がる水中スターマインは特に迫力満点で見ごたえがあります。
栗源町は、小見川から成田方面に向かう途中の山間のまちです。小見川町では水田が盛んな地域であるのに対し、栗源町はどちらかといえば畑どころ。特産品は、なんといってもベニコマチ(さつまいも)です。日本一の焼き芋広場と題して、イモ祭りが盛大に行われます。
山田町は、その名のとおり、山と田に囲まれた里山のまち(ウィキペディアにもそう紹介されていますね)。ちょうど今、この里山に囲まれた橘堰の上空では約200匹の鯉のぼりが泳いでいます。鯉のぼりの掲揚は5月6日(金)までなので、まだまだ見ることができます。また、ゴールデンウィーク中の5月3日には「いきいき山田 鯉のぼり祭り」が開催されるようですよ。
合併して香取市になりましたけれども、このように、かつての1市3町にはそれぞれの地域の特色がありますね。(S)
【代表弁護士から】ペットの損害賠償請求に関する法律相談
2016年04月06日(水曜日)
ペットは家族の一員と考えておられる方も増えてきたように思います。かくいう私も我が家の猫と共に生き、生かされている(食事係として?)と日々感じておりますが、それはさておき、そのような社会になりますと、トラブルも人間と同様のことが起こってきます。
ペットを散歩に連れていったところ、目を離したすきに人に噛みついて怪我をさせてしまったというケースや、ペットが病気なので動物病院に連れていったけれども適切な治療をされず、後遺障害が残ったというようなお話しを耳にします。
人に怪我をさせてしまったというケースは、大した怪我でなければ、昔だったらさして大事にはならなかったと思うのですが、今では警察に被害届けを出されたり(刑事事件として過失傷害罪などの処罰を受けます)、損害賠償請求を請求されるなどといったことが起こっています。
刑事事件では過失傷害罪には罰金刑があり(法律上は30万円が上限)、警察の取り調べを受けることとなります。
損害賠償請求もかまれた怪我の治療費のほか、被害者がそれが原因でウツになったという場合は、そのウツの治療費や慰謝料等も請求されることがあり、なかなか大変な世の中になってきたものだとの感を深くします。
ペットに関する法律問題の本というと、「ペットの法律問題」という書物が出版されていますが(青林書院、2000年)、ペットの法律問題全般を対象としているためか、ペットの事故関係の論述は比較的多くはなく、ペットが医療過誤にあって後遺障害が残った場合にどのような請求ができるかという点については、参考となる論述を見つけることができませんでした。
世の中の方が先に進み、法律家の世界ではそれが後追いとなるということはよくあることなのですが、この分野でも同様のようです。
ペットに関する損害賠償関係を扱っている事務所はさほど多くはないようですので、ご相談などありましたら、お声掛けいただければ幸いです。
ペットに関する法律相談は無料(初回)
お問い合せは、下記のとおりです。
平日5時までは℡043-225-0570
平日5時以降又は土日祝日は℡043-221-1388
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【代表弁護士から】東金市と山部赤人
2016年03月28日(月曜日)
東金市の観光スポットに、「赤人塚」があります.
東金市観光協会のサイトにはこんな風に紹介されています。
”雄蛇ケ池に近い田んぼの真ん中に、万葉歌人として有名な山辺赤人の墓と伝えられる「赤人塚」があります。”
山部赤人は、
”田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける”
という歌で有名な奈良時代の歌人。
古代の方の墓というのは、何箇所もあったりしますので、東金市にあるものが史実としての墓なのかどうか・・・。その点については東金市観光協会も書いていません。ただ、
「山辺赤人の墓と伝えられる」という微妙な表現を用いているだけです。
実際、赤人の墓と伝わる五輪塔は奈良県宇陀市にもあります。
都(当時は奈良)で活躍していたのでしょうから、奈良県に墓がある方が自然なような気がしますが、では、東金市と関連がないのかというと、そうでもないのです。
赤人の氏は、「山部」と通常書かれますが、後世、「山邊(辺)」と表記されることもあるのです。この「山邊」というのは、今の東金市を含む古代の郡の名前です。
また、「上総国山辺郡の出身」という説は昔からあったようです。
これが「やまべ」という読みからの混同なのか、それとも実際に東金市辺りの出身であったのかは、史料もなくわからないようです。