【代表弁護士から】千葉刑務所の歴史
2016年07月29日(金曜日)
刑務所はひっそりと建っています。
千葉にも刑務所があり、千葉市若葉区貝塚町というところにあります。
今では、「刑務所」という名前ですが、1922(大正11)年までは「監獄」というのが正式名称でした。
千葉県では1874(明治7)年に寒川というところに監獄ができ、寒川監獄といわれました。旧寒川村(現千葉市中央区寒川)は、佐倉藩の年貢米を江戸に廻送するための御用港として、賑いをみせていた場所で、明治となって佐倉藩が消滅したので、利用しなくなった米蔵を刑務所に改装したのであろうと思われます。
寒川監獄では死刑が執行されていました(現在の千葉刑務所では死刑執行はありません)。
加波山事件という明治の自由民権運動期の過激事件があるのですが、その主導者である富松正安が1886年(明治19年)8月に大審院で死刑が確定し、10月5日に寒川監獄で処刑されています。享年38の若さでした。
寒川にあった監獄が現在の貝塚町に移転したのは1907(明治40)年のことで、当初は千葉監獄といわれていましたが、その後千葉刑務所という名称となり、現在に至っています。
千葉刑務所は、明治五大監獄の一つです。
明治の五大監獄というのは、山下啓次郎が設計した5ヶ所の監獄のことをいいます。
5箇所とは、千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島で、このうち、現在でも刑務所として利用されているのは、千葉と奈良です。
しかし、最近になって奈良(少年刑務所)は、平成28年度で収容を停止する方針を法務省が発表しています(本年7月16日付朝日新聞)。これにより、五大監獄で現存するのは、千葉刑務所のみとなります。
山下啓次郎が設計した千葉刑務所の建物はなかなか一般の方には見ることができませんが、一年に一度秋に、矯正展が開催されており、千葉刑務所構内に入ることができるので、この機会を利用するのが良いです。